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自己と世界。哲学的なこと、村上春樹論。




“世界”とは何か?



―突然、抽象的な問いかけ―



シェイクスピアなら演劇だと喩えるであろう、“世界”



“世界とは、パスタを美味しく茹でるようなことだ。”



村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を読みながら、そんなことを思う。


村上春樹を読み始めたのは僕が20歳の時だったと思う。
最初はクールで抽象的な世界観と、静かで奥行きのある文章に惹かれていたのだけれど、村上作品が何を描いているのかは良くわからずにいた。けれども改めて読み返すうちに、物語が実感を伴って理解できるようになった気がする。


村上作品に通底するテーマ、それは“失われた自己の世界と回復”だ。


作品中の主人公の多くは失われた世界を生きる。

愛する人を失い、友人を失い、そして自分自身をも失って行く世界。
もしかしたら、と言うより、日常の現実を勇気をもって直視するならば、それこそが世界の本質なのだ。


そしてそれをいかに回復させていくか?が一つの命題となる。


作品において、回復させる世界の行き着くところ。

それは、自分にとって大切な一人の誰かが含まれる世界だ。
その愛する誰かが中心となる世界とはとても具体的な世界だが、それは宇宙よりも広い世界なのだ。



―話を日常の世界に引き戻してみる―



現実の世界は60億人もの人々がそれぞれに自己を持ち、異なる人生がある。それだけの意識があり、同じ数の日常があることを改めて認識すると、
その世界は自分一人が捉えるには余りにも大きすぎて、自分がどうしようもなくちっぽけな存在に感じてしまう。その感覚は時に悲しさを伴うものだ。
そえはたとえば駅ですれ違う無数の人たちは今のこの瞬間を逃すと、この先の人生で自分とはほとんど接点がないのだと思うと寂しい気持ちになるように。


そんな日常の中で自分という個人が“60億人の中の一人”としてではなく、“一人の自分、対「世界」”で捉えられた時に、ひとつの関係式を与えられた時に、とりとめもなく広がる世界のなかで自分の居場所を見つけたような気がするのだ。


村上作品は、日常の一コマ一コマがみずみずしく描かれる。


パスタを茹でる、サンドウィッチを作る、小説を読む、アイロンをかける、などなど。


日常の世界を構成しているひどく具体的なことたち、それこそが世界を自分のもとに呼び戻す手段なのだ。


世界はそうした具体的で実際的なものの積み重ねであり、世界を自分と繋ぐためには、目の前にあるそれらを丁寧に、そして時間をかけて取り組めば良いのだ。


そうした、自己と世界にある有用な価値観を照らしているからこそ、その文学作品は普遍性を獲得する。
だからこそ村上春樹は広く読まれているのだと思う。



―ひとつの帰結―



ありふれた日常、ひとつのスタンス。


単にパスタを茹でるのではなく、美味しくパスタを茹でること。






―taku―
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by goro0124 | 2009-01-27 02:14 |